第56回 大通・菜園界隈(後編)

第56回 大通・菜園界隈(後編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 かつて川床や水田地帯だった場所が盛岡中心市街地として生まれ変わったのが「大通・菜園」界隈と前号で紹介しましたが、その続きをご案内しましょう。

大通り・菜園界隈マップ

 明治時代に入り盛岡駅が開業したあたりでも、南部家所有地だったこの一帯はまったく手つかずで、大正期に至るまでほとんどが水田のままでした。変化といえば、明治中期、大沢川原寄りの一画に「盛岡農学校」と「実習農場」が設置され、明治後期に原敬が古川端に別邸「介寿荘」を建てたこと。桜城小学校が新築地に開校したのも1908(明治41)年でした。

 残った広大な水田の払い下げを南部家当主43代利淳(としあつ)伯爵に願い出たのが、豪商の木津屋八代目池野藤兵衛と分家の池野三次郎、三田商店創業者三田義正の実業家3人。直談判の末、売買が成立したのは1928(昭和3)年6月でした。ちなみに、当時の価格で25万円だったそうです。同年8月に三田社長を中心に「南部土地株式会社」が設立され、商業地や住宅地の造成にさっそく着手となりました。北上川と中津川の合流地に砂利採取船を配置し、大沢川原から旧柳新道、御田屋清水(おたやしみず)までレールを敷き、ディーゼル機関車による砂利運搬トロッコのピストン輸送が始まりました。埋め立ては1930(昭和5)年に完工し、開運橋から御田屋清水までの「大通」、城跡までの「菜園通」、それと交差する「旧元園町」の3本の幹線道を中心に分譲開始。大通は盛岡初のアスファルト舗装で、街路灯に銀杏並木というモダンな街になりました。新市街地には昭和30年代まで「高砂町」「鶴舞町」「亀楽町」「老松町」などおめでたい呼称がつけられた通りもありました。旧元園町に娯楽施設を構想したのも三田氏でした。中央映画劇場、東宝第一劇場、中央ホールが相次いで建設され、今では全国的にもユニークな「映画館通り」が誕生したのです。

 ほとんどの建物は現在に至るまで建て替えられましたが、昭和初期の面影を今に残すものがまだ点在しているのでは…と探すのも散歩の楽しみのひとつです。

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