第59回 内丸・東大通界隈(前編)

第59回 内丸・東大通界隈(前編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 今年の1月末、盛岡市内で「内丸地区の再開発について考えるシンポジウム」という催しがありました。老朽化した県庁、市役所などの建て替え、医大跡地の使途など、まさに盛岡の未来について考える重要な討論会でした。この機会に盛岡にとって「内丸」がどんなエリアだったのかおさらいしてみましょう。

内丸・東大通界隈マップ

 南部氏が盛岡の地に城を構えて以来、藩政時代、維新後、第二次世界大戦後と、時代と共にその様相が大きく変わり続けた地域が「内丸」です。約400年にわたり、盛岡の中心であり続けてきた「内丸」は、東京でいえば、まさに「丸の内」といったところでしょうか。

 盛岡城は、すぐ西に北上川が流れ、東の中津川と下の橋下流で合流することで三方を天然の堀に囲まれた丘陵地に位置し、北側だけが地続きとなっていたため、上の橋下流から中津川の水を引いて旧本町との間に外堀を設け、大手御門という番所を置きました。また、東に中の橋御門、西に日影御門を設け、それらの御門の内側を「内丸」としたのです。

 内丸一帯は南部家一門や重臣のお屋敷ばかりが置かれた地域でしたから、庶民には無縁の場所でした。特に大手御門は内丸の正門とされ、殿様の参勤交代や墓参、その他緊急のとき以外は開かずの門で、ご家来衆は他の御門から、城勤めのお女中や出入り商人たちは中の橋御門からしか内丸地区には入れませんでした。藩政時代の地図を見ると、広小路と呼ばれた沿道には北家、楢山家、毛馬内(けまない)家、奥瀬家、野田家などいずれも六百石以上の高知衆(たかちしゅう)がゆったりした敷地に屋敷を構えていたことがわかります。

 明治維新後、内丸はお屋敷町から官庁街へと大きく変わりました。現在の県庁の所に屋敷があった筆頭家老・楢山佐渡は朝敵の汚名を一身に負い報恩寺で切腹します。維新の混乱のなかで内丸の屋敷地はほとんどが官有地とされ、県庁、警察署、学校、裁判所、連隊司令部などの公的施設が次々と建設されました。1889(明治22)年には盛岡市制が施行され、さらに内丸には盛岡市役所が置かれました。明治初期から大正期に至るこの界隈の変遷は、日本の近代化の縮図でもあります。

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