第75回 旧五小路界隈(後編)

第75回 旧五小路界隈(後編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

旧五小路界隈マップ

 明治時代、「桜の馬場」の一角には盛岡監獄が建てられ囚人たちが収監されていましたが、1884(明治17)年 11月7日(史料によっては4日説も)午後2時30分、囚人の放火により監獄から出火し、風にあおられ火の手は河南地区を総なめに。これが有名な「河南大火」です。この時、すぐ近くにあった鷹匠小路の新渡戸稲造生家が類焼し、この年に着任してその家を仮官舎としていた第2代県令(知事)石井省一郎が不運にも焼け出されてしまいました。大火の後、監獄は前九年地区に移転新築することになり、そのために囚人たちにレンガを作らせたのですが、その一部を流用して建設したといわれているのが、旧上衆小路に現存する盛岡最古の洋風建築「旧石井県令邸」です。その建物は現在、保存建造物として美術展などさまざまなイベントにも活用されています。

 一方、移転後の監獄跡地には1887(明治20)年南岩手高等小学校(現下橋中学校)が開校し、ここから鹿島精一、柴内魁三、米内光政、金田一京助、石川啄木など多くの人材が巣立っています。旧鷹匠小路の一角には「小泉一郎」という表札がある邸宅も現存。小泉一郎は東大卒業後、家業の酪農を継ぐため帰盛、中津川の河川敷で牛を追う若き日の牧童姿は語り草ですが、 彼は酪農家に留まらず、県議などを勤めた政治家であり、平舘清七、高橋忠弥、舞田文雄らと共に美術同人「素顔社」を結成し創作活動も続け、県の美術連盟会長にもなった芸術家でもありました。隣のマンション一階には喫茶店「素顔舎」の看板だけが残っています。

 保存活用の見本として旧上衆小路にある「南昌荘」は外せません。この建物もまた河南大火で居宅を焼失した「みちのくの鉱山王」瀬川安五郎翁によって建てられた邸宅。その後、時代とともに所有者は変わりましたが、現在は一般開放と催事に利用され、実に理想的な保存活用の成功例となっています。明治時代の建物と美しい庭園は、他県から転入されて来た方や、まだご覧になったことがない方にはぜひともお勧めしたいところです。波乱に満ちた南昌荘の歴史については現地でお確かめください。

(後編へ続く)

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