第78回 旧茅町・材木町界隈(前編)

第78回 旧茅町・材木町界隈(前編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 毎年4月から11月の毎週土曜日の午後、盛岡駅から北上川に架かる旭橋を渡り左折した通りで「よ市」が開催されていますが、今回はその界隈をご案内してまいりましょう。

旧茅町・材木町界隈map

 現在、「材木町」と呼ばれているこの通りは、もともとは盛岡信金材木町支店の路地を境にして夕顔瀬橋側が「旧茅町」、旭橋側が「材木町」と呼ばれる2つの町がつながる400年の歴史を持つ老舗の商人町でした。

「旧茅町」は盛岡城下の北の入り口にあたり、北上川を挟み滝沢、厨川、太田、雫石、遠くは鹿角方面と結ぶ重要な拠点でした。1656(明暦2)年、28代重直公の時代に最初の夕顔瀬橋が架橋されるまでは舟渡しがあり、茅町側の河畔には惣門と番所が設けられていました。当時この町は久慈町と呼ばれ、茅町に改められたのは1812(文化9)年、ご城下がそれまでの23町から28丁に再編された年です。町は県北沿岸の久慈方面からの移住者によって築かれたとの説もありますが、南部のそれまでの居城であった三戸の城下にも久慈町があり、そこから商人たちが移り住んだのだという説が有力です。

 橋が渡されてから番所は川向こうの新田町に移設されましたが、この町の飛躍的な発展は目を見張るものがあり、米屋、酒屋、雑貨商など多くの店が軒を連ねていました。藩の御抱え染物師だった南部古代型染元の蛭子屋は1628(寛永5)年創業の老舗で、 「小野染彩所」として現在ものれんを守り継いでいます。

 さて、「夕顔瀬」というなんとも風雅な地名の起こりについてですが、前九年合戦の際、源氏の大軍に追いつめられた安倍貞任が、 夕顔瓜に兜をかぶせ兵士に見立てて川原に並べ敵を欺いたという逸話に由来するもの。この故事はかなり多くの人がご存知のようです。

 夕顔瀬橋は大洪水により何度となく流失の憂き目に遭ったため、1765(明和2)年には川の真ん中に人工島を築き、橋桁を高くして東国屈指といわれた橋が架けられました。その後も明治から現在に至るまで何度か架け替えられてきましたが、一対の石灯籠にまつわる面白いエピソードについては次号で紹介させていただきます。

(後編へ続く)

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