前号でご紹介したレトロ銭湯「菊の湯」の閉店を惜しみながら、旧上小路の通りに戻ります。この旧宮古街道は、昭和40年代に4号線バイパス道路で東西に分断され、さらに106号線のコース切り替えによって幹線道路の役目を終え、すっかり生活道路になってしまいました。そのおかげで最近まで町家や長屋など比較的古い建物が残っていたところでしたが、さすがに近年は次々に建て替えたり取り壊されたりしているようです。それでも盛岡町家の形態を継承し、その特徴を守っている米重(旧塩重)商店や明治後期の造りである野村屋米穀店など旧街道筋の表情を今に残しています。
現在、この界隈は茶畑、中野という地名に変わっています。決して城下町風な町名ではありませんが、これはこれで歴史のある地名なのです。
まず「茶畑」ですが、慶長年間初頭といいますからまさに盛岡の地にお城を移す大事業が緒についた400年以上前の話です。26代南部信直公が大和の国(奈良県)から茶商を招聘し、現在の茶畑地区で茶の栽培を命じた事から、文字通りの地名として残ったものです。茶の栽培は産業とするまでには至らなかったようですが、今も中野小学校隣の古澤家の庭園には当時植えられたといわれる茶樹が残っています。ちなみに旧上小路は盛岡リンゴ発祥の地でもあります。1872年、現在の中野小学校地内に古澤林によって栽培されたとの記録があります。
次に「中野」という地名ですが、中世には北上川、中津川、簗川に囲まれた広大な地域が「中野郷」と伝えられています。「川の内側(中側)の広い原野」と言うことでしょうか。簗川の対岸に「東中野」北上川の対岸に「向中野」という地名が残っていることからもうなずけます。
中野小学校から旧上小路の通りへ戻りさらに東に進むと、1928年竣工の吉田邸が見えてきます。簗川沿いの山林を所有し代々南部家御用達の薪炭業を営んでいた吉田氏が、自分の山から切り出した木材を使い3年がかりで建てたという見事な豪邸。取り壊されることなく、ずっとここに残ることを祈るばかりです。旧上小路界隈、だいたい2500歩のみちくさでした。
(後編へ続く)