連載100回記念 〜みちくさ編〜 100年前の内丸・中央通りを歩く

連載100回記念 〜みちくさ編〜 100年前の内丸・中央通りを歩く

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 2017年(平成29年)に連載が始まった「もりおかいにしえ散歩」が、なんと今月100回の節目を迎えました。これまでご愛読いただいた皆さまへの感謝を込めつつ、連載100回と昭和100年をかけて、今回は1926(昭和元)年頃の盛岡を歩いてみたいと思います。

 100年前といえば、まだ「映画館通り」も「大通商店街」も存在しなかった時代。野村証券脇の石碑に「この地に岩手県立盛岡農学校ありき」と刻まれているように、当時この一帯には、農学校(現 盛岡農業高校)の校舎と実習農園がありました。1929(昭和4)年に現 盛岡四高がある川久保に移転するまでは、のどかな風景が広がっていたのです。では100年前のメインストリートはどこだったのかというと仁王小路から内丸にかけて、そう現在の中央通りです。ということで、100年前にタイムトリップしながら、仁王小路から市役所へと続く通りを歩いてみます。

 仁王小路と仁王新小路が交差する角、現 かとう整形外科クリニックの所には「市医師会」①、向かいには「家畜市場」②があり、そこから赤川土橋を渡って内丸方面に進むと日影門外小路と道を挟んで「岩手毎日新聞社」③がありました。3軒隣には「岩手日報社」④があり、互いにライバル心を燃やしていたそうです。

 現在のNTT東日本の所には「盛岡浸礼教会(内丸教会)」⑤があり、敷地内には県内最初の幼児教育施設「盛岡幼稚園」がありました。通りを挟んで現 岩手銀行本店の場所には「赤十字病院」⑥、さらに進むと「盛岡地方裁判所」⑦「石割桜」⑧そして総ひのき造りの壮観な「岩手県庁」⑨が並んでいました。石割桜の向かいには「岩手県師範学校女子部」⑩と附属小学校がありました。冬になると校舎裏の「亀ケ池」⑪で、生徒さんたちがスケートを楽しんでいました。

 「大手先」と「内丸通り」の交差点を渡ると、そこには「岩手県公会堂」⑫がありました。ただし、元号が大正から昭和へと変わる約1カ月前の1926(大正15)年11月に上棟式を行っていますから、まだ骨組みだけだったのかもしれません。1927(昭和2)年6月18日に落成式が行われ、翌1928(昭和3)年には陸軍特別大演習の大本営となり、盛岡に行幸した昭和天皇の宿舎としても使われました。余談ですが、昭和天皇がお泊まりになるということで盛岡初の水洗トイレが公会堂にできたと云われてます。

 県公会堂の真向かいは櫻山神社の境内に2軒ほどの茶店、鶴ケ池の畔には原敬首相が帰省した際に当時の県知事や盛岡市長に提案し実現した「岩手県立図書館」⑬がありました。竣工を4カ月後に控えた1921(大正10)年11月4日、原敬は東京駅で暗殺されてしまい無念にも完成を見届けることはできませんでしたが、原敬からの寄付金1万円が遺族から届けられ、図書の購入などに使われたといいます。隣には「巡査教習所(岩手県警察学校)」⑭と「盛岡警察署」⑮が並び、現在と同じ場所に木造2階建ての「盛岡市役所」⑯があり、名市長と慕われた北田親氏が最後の任期を務めていました。

 市庁舎まできて中央通りを振り返ってみると、100年前のまま残っているのは県公会堂と時鐘、一の鳥居、聖跡記念塔緑地ぐらいなもの。時の流れを思わずにはおれません。市庁舎や医大などの移転に伴う内丸再開発の構想もあるようですが、次の100年を見据えた街づくりを期待したいものです。

 ちなみに、盛岡市先人記念館2階エントランス正面の壁や東山堂イオン前潟店のパテーションで当時の盛岡市内地図をご覧になれます。また、もりおか啄木賢治青春館の1階奥にあるジオラマも見ていて飽きませんね。「内丸・中央通り」100年の時を遡るみちくさでした。

(後編へ続く)

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