● 導かれるように 外食産業の世界へ
オープンから38年、盛岡冷麺を全国に広めてきた「ぴょんぴょん舎」。その生みの親である株式会社中原商店取締役会長の邉龍雄(へん たつお)さんは、ご自身の人生を静かに振り返ります。「税理士を目指していた私が、なぜレストランを始めたのか。まず私の家族のことから」と語る口調は穏やかで、その言葉の端々からは家族や故郷への深い愛がにじみ出ていました。
邉さんは、韓国人の両親のもと7人きょうだいの四男として生まれました。長男は韓国の祖母のもとで育ち、三男は原爆症により17歳でこの世を去り、その悲しみをバネに次男は医師になったといいます。「リサイクル業を営んでいた父が病で倒れた時、家業を継げるのは私しかいませんでした」と邉さん。学生時代、自分のアイデンティティに悩み葛藤し、歴史を学びながら在日韓国人、そして両親への理解を深め、自分らしい生き方を探してきました。「知れば知るほど、韓国から日本に渡り、戦前戦後を生き抜いてきた両親の歴史を背負いたいという感謝の気持ちが大きくなりました」と、家業を継いだ心境を話します。
順調に業績を伸ばす中、1985年頃からの急激な円高で大打撃を受け、事業転換を決断します。「稲荷町本店の場所にリサイクル業で使っていた土地があって、立地も良いし外食産業をやったら成功するだろうと思ったのがきっかけです。それに、音楽や絵画、内装など私の好きなアートの世界と店づくりが一つになれば、仕事の枠を超えて楽しめるとワクワクしました」と目を輝かせます。やるからには料理を基礎から学びたいと37歳で調理師学校に通い始めました。
ちょうどその頃「第1回ニッポンめんサミット」の開催が決まり、邉さんは冷麺の参加者集めに奔走することに。「ところが、考え方の違いや調理設備の問題で賛同を得られず、私が出ることになってしまいました」。本番まで約10日という短期間で試作を繰り返し、必ずやり遂げるという信念で邉さん流の冷麺を完成させました。「会場に行ったら『盛岡冷麺』という看板が出ていて、これ大丈夫かなと思いました」と苦笑いする邉さん。行政が盛岡冷麺と命名したことは、当日まで知らなかったといいます。案の定、同胞の大先輩に「民族の文化を売る気か」と叱責されましたが、そんな苦労も今となっては懐かしい思い出だと笑顔で話します。
それから間もなく日本橋高島屋の「大いわて展」への出店が決まり、この実績が大きな弾みとなり87年11月、岩手県事業転換第1号として「ぴょんぴょん舎」をオープンしました。「『日本と韓国の文化両方を体験している私がうらやましい』と言ってくれた友人のおかげで、店づくりの発想が一気に広がりました」と邉さん。「日韓の文化の融合」を自分の個性、強みとして事業を広げ、県内外に10店舗を構える企業へと成長していったのです。
●次の世代のために 今できることを
今年6月、邉さんは長男の公哲さんに事業を継承しました。「2年前から準備を始めて、個々の人生観と企業としての価値観、方向性を重ね合わせ、経営者だけでなくチームとして事業を継承できるよう社員中心の研修を続けてきました」と邉さん。今後は会長として、総合的なフォロー役に徹するといいます。「ただ、毎日一食は店で食事をし、味をチェックする文句係は続けます。企業理念にも掲げていますがレストランは回復する場所ですから、おいしさ、楽しさだけでなく食べることで体の調子を整えられるよう自分の味覚と体で確認していきます」と目を細めました。
事業継承も一段落した今、ご自身の今後についてお聞きすると「子どもに関わる生き方がしたい」とのこと。6年前に企業主導型の保育施設「まちのあそびの園」を開園し、子どもたちの未来に思いを巡らす機会が増えたことも影響しているといいます。「まずはバランスの良い食事と適度な運動で自分の健康を維持し、食育や環境問題など子どもたちのためにこれからの人生を使いたいと思っています。孫たちの世代のためにシニアみんなで力を合わせて頑張りましょう」と邉さん。『盛岡冷麺』を全国区に導いた邉龍雄さんは、新たな夢に向かって力強く踏み出しました。