世界中で愛される宮沢賢治の文学ですが、中国で賢治が読まれるきっかけをつくったのが黄瀛です。
黄瀛は中国人を父に、日本人を母に1906(明治33)年10月4日、中国の重慶に生まれました。父が早く亡くなり、母の故郷千葉県八日市場で成長します。
青島日本中学校在学中の1923(大正12)年、第一書房が刊行していた詩誌『詩聖』に「早春登校」が掲載されました。詩壇で認められ、草野心平が始めた詩誌『銅鑼』の同人として宮沢賢治との文通が始まります。
黄瀛は日本に帰国して御茶ノ水の文化学院に入学しますが、保証人を引き受けたのは高村光太郎です。萩原朔太郎や木下杢太郎からも高い評価を受け、詩壇の寵児となった黄瀛ですが、詩を書いては生活できず軍人の道を選択します。
1929(昭和4)年6月、陸軍士官学校卒業旅行の折、黄瀛は花巻に賢治を訪ね、たった一度の出会いを「南京より」という文章に記しました。
国民党の将校となった黄瀛は相次ぐ戦争に翻弄され、鄧小平による開放政策により、やっと黄瀛は重慶の四川外語学院で日本語・日本文学を教える職を得ました。黄瀛が真っ先に取り上げたのが、賢治の「雨ニモマケズ」でした。その後、賢治の作品は次第に中国に浸透するようになったのです。



