ー「本街道はやがて城下を抜け、左右に貧しい足軽屋敷が続くまっすぐな道になった」(浅田次郎「壬生義士伝」より)ー
前回に続き上田組町界隈についてご案内してまいりましょう。冒頭で紹介した「壬生義士伝」の主人公・吉村貫一郎は、上田組町で生まれ育った足軽という設定になっており、同名の映画ではその屋敷町のたたずまいが再現されていました。貫一郎少年が道場で稽古の帰り道、花売りをしている娘で後に妻女となるおしずに初めて出会う所が正覚寺門前です。
さて、上田組町には表通りを挟んで東側を東組裏、西側を西組裏と称する細い路地があり、正覚寺は上田東組裏にあります。この寺は城下町建設途上の1626(寛永3)年開山の古刹。現在の本堂は火事で焼けた後の1864(元治元)年に建てられたもので、「汗かき観音」として知られる聖観音立像や世不見地蔵尊など由緒ある仏像が安置されています。
一方、上田西組裏には頑求(がんく)院という寺院がありましたが、明治維新の際の廃仏毀釈で廃寺となり、覚山地蔵堂だけが残りました。
上田組町を大きく変えたのは1926(大正15)年に盛岡駅前から移転新築した日本たばこ産業の前身・日本専売公社盛岡工場でした。覚山地蔵堂の向い側の広大な土地に、盛岡初の鉄筋コンクリート作りのモダンな工場が完成し、工場敷地内には上盛岡駅から貨車の引込み線も敷設。工場では600人以上が働き、周辺には商店や飲食店が軒を並べるようになり、この界隈は活気に満ちたものになりましたが、1972(昭和44)年に工場はみたけに移転、跡地には皮肉にも「禁煙」の看板と共に県立中央病院が移転してきたのでした。
ところで、覚山地蔵尊のその後はどうなったのか、というと、1960(昭和35)年 頑求院の本寺でムカデ姫のお墓があることでも知られる名須川町の光台寺が地蔵を引き取り、境内に地蔵堂を建てて祀っています。江戸時代に南部の若君が吉原で辻斬りをし御用役人に追われているところを豆腐屋にかくまってもらい云々…と、お豆腐にまつわるお地蔵さん伝説がある覚山地蔵尊。かつてはいつもお豆腐が供えられていたのだそうです。
(後編へ続く)