葛西重雄が遺した庭園

葛西重雄が遺した庭園

岩手の先人こぼれ話
岩手の先人こぼれ話シリーズ

宮沢賢治学会 前副代表理事 佐藤竜一さん

 原敬は1902(明治35)年の衆議院議員選挙で盛岡市から初めて出馬して当選しますが、その際尽力した一人に葛西重雄(かさいしげお)がいます。建築家・葛西萬司(かさいまんじ)の養父です。

 重雄は1849(嘉永2)年、盛岡藩士の家に生まれました。盛岡藩校・作人館で学んだ後、盛岡藩主・南部利剛(なんぶとしひさ)に小姓(雑用を担当する武士)として仕えました。戊辰戦争で盛岡藩が敗れてからは戦後処理に奔走しています。盛岡と京都を拠点とする豪商・小野組の幹部だった古河市兵衛(ふるかわいちべえ)の下で働くようになり、運が開けます。秋田の古河阿仁鉱山事務所長などを歴任し、次第に岩手の経済界でリーダーシップを発揮するようになりました。盛岡で葛西萬司が設計した建物が多く作られたのは重雄の人脈があったからです。

 重雄は1921(大正10)年から亡くなる1925(大正14)年まで盛岡市志家町の洋館に住みましたが、約2500坪の宅地に見事な庭園を備えた豪邸でした。1964(昭和39)年にIBC岩手放送の敷地となり、萬司が設計した建物は取り壊されましたが、庭園の一部は遺っています。重雄が全国から樹木や庭石を取り寄せただけあって見事な造景で、往時を偲(しの)ぶことができます。

IBC岩手放送の敷地に遺る葛西重雄ゆかりの庭園
IBC岩手放送の敷地に遺る葛西重雄ゆかりの庭園

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