これまでも城下の旧町名の町や侍小路などをご案内してまいりましたが、町人の町が城下28町あるなかで、もっとも城下町らしい名で典型的な職人の町といえるのが「大工町」です。
旧大工町は、河北地区随一の繁華街であった旧本町、旧八日町の奥州街道筋北側に背中合わせで延びていた町です。その名の通り、当初は城や侍屋敷、寺社、そして城下町づくりに関わった大工職人たちの居住区として町割されました。古地図を見てみると、まるでハーモニカやトウモロコシのように同じサイズの小間割が通りに沿ってビッシリと並んでいます。狭い間口に縦長の奥行きになっているので「短冊を並べたような町」というほうがイメージしやすいかもしれません。そこに大工小頭の家があり、その弟子たちも住み込んでいました。
この町には大工さんのほかにも、家具を作る指物師(さしものし)、壁塗りの左官、戸障子の建具師、庭師、石工などの職人たちが住んでいましたが、逆に言えば職人しかいなかった町だったわけです。神社仏閣や公共施設、武家屋敷、老舗の大店(おおだな)などもありませんでした。1671(寛文11)年城下最初の質屋が開業を許された町であった事実や、1806(文化3)年東顕寺(とうけんじ)の本堂を建てた大工の棟梁を記した「大工町戸沢甚助ほか」の記録など、丹念に古文書を探せばいろいろと出てくるのでしょうが、大工町に関する公の歴史資料は著しく乏しいのが残念です。
想像するに、この町は落語の「八つぁん熊さん」や山本周五郎の小説に出てくるような名もない庶民の人情あふれる町だったのでしょう。そして、そのような職人町の雰囲気は今も多少は残っていると思います。
油商人が住んでいたことに由来する通称・油町横丁と呼ばれた東側から旧大工町の通りに入ってみましょう。まず角地には、以前1階がパン屋さんだった町家造りの本舘邸が佇んでいます。この町家は1871(明治4)年に建てられた赤瓦屋根と上品な格子窓が美しい歴史的建造物で、150年あまり経った今もなおその姿が残されているということが素晴らしいですね。