今年1月、ニューヨーク・タイムズ紙が「2023年に行くべき52カ所」を発表し、そこに「盛岡市」が取り上げられたことで、盛岡は一躍脚光を浴びインバウンドを始め多くの観光客でにぎわいを見せています。
その盛岡の市内で未来に継承していきたい景観としていつも上位にあげられているのが、「中津川と上の橋の擬宝珠」です。この上の橋の両側に町割されていたのが旧紙町。今回は橋を中心に栄えた旧紙町とそこに隣接していた旧鍛冶町界隈をご案内したいと思います。
その盛岡の市内で未来に継承していきたい景観としていつも上位にあげられているのが、「中津川と上の橋の擬宝珠」です。この上の橋の両側に町割されていたのが旧紙町。今回は橋を中心に栄えた旧紙町とそこに隣接していた旧鍛冶町界隈をご案内したいと思います。
城下町にもかかわらず盛岡がしばしば「みちのくの小京都」に例えられるのは、上の橋の存在に負うところが大きいと思います。欄干を飾っている青銅製の擬宝珠は、1609(慶長14)年に27代藩主南部利直が盛岡城築城の折、中津川に最初に橋を架けた当時のもので、「慶長十四年巳酉年 十月吉日 中津川上之橋 源の朝臣 利直」と銘文が刻まれています。これほど古い擬宝珠が残っている橋は日本で3カ所(盛岡の「上の橋」と「下の橋」、京都の「三条大橋」)のみと言われていますから、いかに貴重な歴史的遺産であるかがわかります。実は上の橋の擬宝珠のうち1つだけ県立博物館に展示しているため、代わりにレプリカをつけている欄干があります。表面の滑らかな肌合いが違って見えるので、ぜひ探してみてはいかがでしょう。
さて、ご城下最初の橋として架けられた上の橋は、その後に架橋された中の橋や下の橋がお城と城下をつなぐ橋であるのに対し、河南と河北の町人街を結ぶ奥州街道の要衝でした。旧鍛冶町には江戸日本橋から数えて139番目の一里塚があり、ここが秋田、鹿角、小本、閉伊、遠野などへ延びる各街道の起点でもありましたから、上の橋はいわば「盛岡の日本橋」といえますね。多くの人々が行きかう橋ということで、1740(元文5)年 33代利視(としみ)公の時代には、橋の東詰めに藩の「目安箱」が設置されたりもしたそうです。そんな要路でしたから、盛岡を商売の拠点にしようと近江(滋賀県)から渡ってきた近江商人たちの多くはこの界隈に店を開きました。
2023.10.12 本文について訂正のお知らせ
当記事において、事実と異なる記載がありました。
「実は上の橋の擬宝珠のうち1つだけ県立博物館に展示している」とあるのは伝聞に基づく誤認記載で、その事実はありませんでした。読者と県立博物館に心よりお詫び申し上げます。
真山重博