前号で少し触れましたが、今号は夕顔瀬橋の一対の石灯籠にまつわる面白いエピソードからスタートいたしましょう。
1865(慶応元)年2月、厨川村三ツ家(現城西町)から出火の飛び火により茅町をはじめ一千戸以上もの家屋敷を焼いた大火がありました。その際、奇跡的に焼け残った材木町の住民は、信仰する岩手山神社が守ってくれたことに感謝し、翌年「巖鷲山御神前」と記した石灯籠を寄進、当時の夕顔瀬橋の上に建てたのですが、そこまで運ぶのに延焼した茅町を通るのでは汚れるというので、なんとわざわざ船で運んで橋上に引き上げたということです。
1940(昭和15)年、重戦車の通行にも耐えられるようにと鉄橋に架け替えになったときに、元の場所には置いてもらえず橋のたもと、盛岡市の保存樹木「夕顔瀬橋際のシンジュ・ケヤキ群」のそばに移設されたまま現在に至っています。現在、橋の上に建立されているのは、1993(平成5)年、現在の新しい橋に架け替えられた際、昔を偲ぶモニュメントとして設置されたレプリカです。
延焼を免れた材木町は、はじめは岩手町と呼ばれていました。岩手郡方面からの移住者が多かったという説もありますが、1655(明暦元)年に材木町と改められ、時代が下り1963(昭和38)年の住居表示法の際に多くの旧町名が消えていく中で、その町名の消失をも免れたのでした。そればかりか茅町まで吸収してしまったのです。
材木町は藩政時代、北上川を利用した貯木場があったことからこの町名がついたといわれており、木場の材木商や屋根葺き用の柾商人を中心とする商人町が形成され、さらに米雑穀商、荒物屋、金物屋、小間物屋、酒屋、旅篭など、あらゆる業種の店が軒を連ねるようになりました。また、上田に盛岡高等農林が開校してからは学生たちでもにぎわうようになり、宮沢賢治もこの町の書店や楽器店などしばしば訪れていました。
今年で50周年を迎えた「よ市」でにぎわう材木町。裏の歴史的石組み護岸や北上川沿いの景色を眺めながらの散策もおすすめのスポットです。
(後編へ続く)