1822(文政5)年8月、盛岡藩の志士・相馬大作(本名 下斗米秀之進[しもどまいひでのしん])が江戸で処刑されました。前年4月、秋田藩領の白沢(現大館市)で、江戸から帰国途中の津軽藩主・津軽寧親(つがるやすちか)を襲撃しようとした罪です。計画は事前に発覚し、未遂に終わりました。
この事件は大作に深い理解を示した盛岡藩主・南部利敬(なんぶとしたか)の死がきっかけとなり引き起こされました。利敬の江戸城での席次が津軽藩主より下で、そのことを無念に思いつつ利敬が亡くなったと伝え聞いた大作は、津軽藩主を亡き者にすることで無念を代わりに晴らそうとしたのです。
大作は1789(寛政元)年、盛岡藩領の二戸郡福岡村(現二戸市)に生まれました。18歳で江戸に出て、名剣士として知られていた平山行蔵(ひらやまこうぞう)の門下となり、腕をあげて帰国、郷里・福岡に講武場(こうぶじょう)を設けて武術を指導しました。藩主・利敬を慕っていた大作にとって、積年の鬱憤により39歳の若さで亡くなったことは耐えられないことでした。
未遂に終わったとはいえ、藩主を思うあまりの大作の行動は江戸に住む人々を感動させ、講談や小説の題材としてもてはやされました。幕末期に活躍した長州藩の吉田松陰(よしだしょういん)は大作を追慕し、長歌を詠じています。
盛岡藩の菩提寺(ぼだいじ)である金地院(こんちいん)には、相馬大作の墓があります。盛岡藩士・黒川主馬(くろかわしゅめ)が建てたと伝えられています。