大槻文彦と『言海』

大槻文彦と『言海』

岩手の先人こぼれ話
岩手の先人こぼれ話シリーズ

宮沢賢治学会 前副代表理事 佐藤竜一さん

 わが国最初の国語辞典『言海(げんかい)』の編さん者として知られる大槻文彦(おおつき ふみひこ)は藩政時代から続く学者一族である大槻家の出です。祖父は蘭学者として名をはせた一関藩出身の大槻玄沢(げんたく)。父は仙台藩の著名な儒学者・大槻磐渓(ばんけい)で、磐渓の三男として、1847(弘化4)年11月に江戸で生まれました。

 文彦は開成学校(東京大学の前身)を卒業後、27歳で1873(明治6)年宮城師範学校の校長に就任し、小学校教師の養成に努めました。

 1875(明治8)年、文部省報告課(後の編集局)に転じますが、国語辞典の編さんを命じられ、その仕事に専念しました。実に16年間という長い年月をかけ、『言海』を完成させたのです。『言海』は1949(昭和24)年に紙型が焼失するまで、600版を超えて重版され、不朽の国語辞典として知られるようになりました。

 1898(明治31)年10月1日、文彦は盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)に次いで岩手県で二番目に発足した一関中学校(現一関第一高等学校)の開校式に招かれ、祝辞を述べています。祖先の地である一関に対して、並々でない愛着を抱き続けた人でした。

大槻文彦先生の像 (一関市立図書館)
大槻文彦先生の像 (一関市立図書館)

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