1905(明治38)年ロシアとの戦争(日露戦争)に勝利した日本は第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋(あっせん)で、アメリカの北東海岸にあるポーツマスでロシアとの間に条約を調印します(ポーツマス条約)。ロシアとの交渉は、最終的には「日本は賠償金を要求しない。ロシアは樺太(からふと)の北緯50度以南を割譲(かつじょう)(譲り渡すという意味)する」という条件で合意に達しました。
そのときの日本側主席全権委員は小村寿太郎(こむらじゅたろう)ですが、小村の下で実務に当たったのが一関出身の外交官・高平小五郎です。
高平は1854(安政元)年、一関藩士の家系に生まれました。明治維新後に上京し大学南校(現東大)に学び、卒業後は工部省を経て外務省に転じ、外交官となりました。
ポーツマス条約により、日本は満州からのロシア軍の撤退などを実現し、長春(ちょうしゅん)から旅順(りょじゅん)までの東清(とうしん)鉄道南満州支線の譲渡を受けました。これが翌1906年南満州鉄道(略称:満鉄)となります。ロシアとの交渉は難航したと伝えられますが、小村と高平の粘り強い交渉の成果でした。