【「奥」地名】理不尽の残像

【「奥」地名】理不尽の残像

風のうわさ
風のうわさ イワテ奇談漂流

高橋政彦さん

 奥飛騨、奥会津、奥出雲など「奥」が付く地名には「さらにその先」「まだ見ぬ地」という旅情をくすぐる響きがあり、さらには魅力に満ちたイメージが寄り添っている気がする。

 身近な言葉の「みちのく」も漢字を当てはめれば「道奥」となるという。それは読んで字の如く「道の奥にある国」の意味で、中央朝廷から見ての感覚から付けられた呼称だ。時の都からすればとてつもなく遠い未知なる場所だったのだ。

 平安後期に光り輝いた平泉の藤原一族を「奥州藤原氏」と称するのをよく目にするが、そこにも中央から遠い地という意味があった。そして声高に言わないまでも魅力を感じていた。その魅力とは砂金や駿馬、その他多くの「欲しいもの」を指すのは言うまでもない。ゆえにそれを手に入れようとするドス黒い思惑が渦巻き、奥州の権力略奪という策略に動いていくのである。

 この構造は平安後期に始まったことではない。 《東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし》

 こう記されているのは『日本書紀』である。これは蝦夷のよく肥えて広い土地など征服し略奪しようという、朝廷による最初の宣言である。

 以来、中央権力は勇ましい蝦夷を怖れながらも、そこにあるすべてを我が物にしようと時を隔てつつ繰り返し攻めて来るのである。

 そう、「陸奥」も「奥州」も、遠くて辺鄙な地でありながら、そこに産する物はすべて俺たちの物という、蝦夷への蔑みと権力者の傲慢が滲み出ている蔑称と言えるのだ。

 平安中期の陸奥国に君臨した安倍一族。貞任・宗任兄弟の父である安倍頼時が統治した胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡は「奥六郡」と称された。史書は今もそう記するが、そのように呼んだのは安倍氏側ではなく、朝廷側の視点があったはずである。安倍氏は奥とは思っていないのだから。

 安倍一族は、朝廷の支配下に置かれる「俘囚」(朝廷に恭順を示した陸奥・出羽の蝦夷を呼ぶ蔑称)として「奥六郡」の現地支配を任されていた。中央から遠く、支配していくのが難しい「奥六郡」を、朝廷は言いなりになる俘囚に統括させ、機会を見計らい、理不尽な理由をつけ、「撃ちて取りつべし」と密かに狙い続けてきたのだ。

 その権力・武力に物を言わせた謀略は、時代を超えて何度も繰り返し襲ってくる大津波のようなものだったことだろう。歴代の北の豪族たちは毎回じわじわと追い詰められ、嵌められ、滅ぼされ、まんまと略奪を許すのである。

 ここ岩手で語られる「奥」地名には「理不尽の残像」が見え隠れしている。

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