前回はご城下への西の入り口として隆盛を見せ始めた新田町(しんでんまち)のご案内をしましたが、今回はその後の進展についてご説明いたします。
明治に入ってからの新田町は、西方に広がる大農村地帯を背景に、馬車鍛冶屋、蹄鉄屋、荒物屋、味噌・醤油屋、麹・酒屋などのいわゆる「モノを作って売る店」が軒を並べていて結構繁盛していました。この町の基盤を決定づけたのは1890(明治23)年の東北本線開通と盛岡駅の開業、そして盛鉄工場の創業でした。
前々回の号でも述べたように、最初の計画では仙北町にできるはずだった盛岡駅が地元の猛反対にあい、かつて平戸といわれた地、すなわち新田町の南隣接地に変更されたことにより、新田町には鉄道員宿舎が建ち、関連業者が出入りするようになると、小売り店や飲食店が次々と看板を出し始めました。盛鉄工場も年々規模を拡充し工員も千人近くまで増え、そのほとんどが三十軒地区、下田地区に暮らし、新田町は鉄道員の町として栄えていきました。国鉄からJRになった現在でも、この地区には鉄道関係者が最も多く住んでいるようです。路地を入れば今でも飲み屋さんが点在していて、非番の運転士や車掌、交代勤務の工員たちが一杯やっていた頃が懐かしく思い起こされます。現在の跨線橋が完成するまでは、新田町の真ん中あたりに踏切があり、東北本線(現IGR)、花輪線、山田線、橋場線(現田沢湖線) のほか、貨物や回送列車が何本も往復していたので、1日に延べ8時間も遮断機が降り、時には人や車が20分も待たされることもあったそうで、市民はこの新田町踏み切りを「あかずの踏み切り」と呼んでいました。
新田町は1965(昭和40)年の第3次住居表示施行により、線路を挟んで東側が夕顔瀬町などに、西側が新田町などに分けられたのですが、1969(昭和44)年の跨線橋開通による踏み切り撤去や翌年に地下道が開通するようになると、幹線道路の役目を終えることになりました。その後、盛鉄工場閉鎖と夕顔瀬橋の架け替えによるコースの変更もあり、新田町からはひと頃の賑わいが消え、今ではのんびり町歩きを楽しめる生活道路に。時代の変遷を感じさせる通りです。