前号に続き盛岡らしい景観を守り継いでいる「紺屋町」をご案内してまいりましょう。紺屋町を歩けばお分かりの通り、風格のある銀行に挟まれた通りを北に向かうと道が「くの字型」になっていますが、この屈折した道がまた城下町の風情を醸し出しています。これは昔、今の勤労福祉会館のあたり一帯に「斗米山(とっこべやま)」といわれた小さな岩山があったため直進できなかったのだそうです。そしてその道筋に合わせて屈折して建てられた商家が創業200年以上の老舗「茣座九(ござく)」こと森九商店です。建物は天保時代のものもあれば幕末、明治に建て増しされたものもあり、7棟の土蔵を含む店舗兼住宅の木造二階建。「茣座九」の手前には「三島医院」がありますが、ここは以前、野村胡堂や宮沢賢治が盛岡中学を受験する際に宿泊した三嶋屋という老舗旅館だったところです。
「茣座九」の先には、金融や貿易の商いを手広くやっていた南部藩随一の豪商「鍵屋」がありましたが、明治新政府の謀略で4代目村井茂兵衛の時に没落してしまいます。跡地には渋沢栄一が興(おこ)した第一国立銀行の支店が置かれ、支配人として従兄の尾高惇忠(おだかあつただ)が赴任、盛岡の産業振興と人材育成に多大な影響を及ぼしました。
中津川の対岸にある県庁との往来のために架けた銀行橋と呼ばれる橋がありましたが、洪水で流失後改めて架橋されたのが「与の字橋」です。この銀行も1894(明治27)年に閉店となりその跡地には盛岡電灯会社(現在の東北電力岩手支店)が新設されました。
盛岡ブランドの元祖ともいえる南部紫根染の伝統を継承している「草紫堂」、南部鉄器の「釜定」、南部せんべいの「白沢せんべい店」、「森八商店」、そしてこのほど化粧直しを終え、新しい街角交流施設として生まれ変わった「旧よ組番屋」などの建物が、今も紺屋町らしいたたずまいを守っています。
風景の記憶としては、与の字橋のたもとに“元祖わんこそば”の暖簾を出していた「わんこや」や、紺屋町から旧鍛冶町に続く名だたる商家の家並みの一画に、そこだけ別世界のような盛岡最大の映画館「国劇」があったことがとても懐かしく思い起こされます。