さる2021(令和3)年に惜しまれて閉店した田口写真機店のところから県公会堂や県庁方面に向かう通りは、お城に通じる大手門があったことから、以前は「大手先」と呼んでいました。藩政時代、大手門があった場所は中津川から水を引いた掘割でもって上級武家屋敷と本町を分けていました。この大手門が開くのは特別な時に限られていたため、お城勤めの下級武士や出入りの商人たちが城内に入る場合、通用門まで遠回りせざるをえなかったようです。
藩政時代から本町には砂糖問屋や藩御用達(はんごようたし)の菓子屋が多かったとの記録がありますが、現在でも菓子屋や団子屋が通りに並んでいます。この通りには1932(昭和7)年創業の盛岡でもっとも古くから現存する「喫茶ママ」もあります。
明治になり大手門も撤去され堀も埋め立てられたその跡に道ができ町ができました。その地は不来方町と名づけられました。今ではマンションが建てられていますが、かつて内丸座という映画館があった角から入る、旧岩手医大・附属病院と本町通りの間の道です。道の東西両端には「不来方町・明治23年5月」と刻まれた石標を今でも見ることができます。この通りは大正時代まで「猫横丁」と呼ばれていたそうです。というのも、この界隈には芸者さんが多く住んでいて、お座敷に上がる前のお稽古で昼間から三味線の音が響いていたことから、粋人がしゃれで呼んだのが通称になったとか。1884(明治17)年の河南大火で焼け出された八幡町の幡街(ばんがい)芸者衆の多くが仮住まい先として移り住んだのが新開地の不来方町。それがきっかけで本町、大手先界隈にも料亭の開業が相次ぎ、新たに本街芸者衆も登場し芸を競い合いました。幡街芸者衆が復興した八幡町に戻ってからは、八幡は主に商家の旦那衆、本町の料亭は内丸のお役人や議員さん、医大や師範学校の先生方の奥座敷として利用されていたようです。現在はほとんどの料亭が廃業、跡地は駐車場やマンションになってしまい、わずかに「駒龍」が面影を残しています。1963(昭和38)年の住居表示法施行で油町、大工町、花屋町、八日町、四ツ家町、 三戸町などは本町通1~3丁目として吸収され、「本町」の名称だけがかろうじて残ったわけです。
(後編へ続く)