第103回 〜みちくさ編〜 旧六日町界隈(前編)

第103回 〜みちくさ編〜 旧六日町界隈(前編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 毎月6日と16日に市日が開かれたことから「むよかちょう」と呼ばれた「旧六日町」。盛岡城下造成まで南部の居城であった三戸城下(現 青森県三戸町)にも六日町があり、そこから移ってきた商人たちが住み着いたという説もあります。

地図

 南の玄関口である新穀町の惣門から御城下に入り、穀町を経て六日町、呉服町と通じるルートは、藩政時代は奥州街道のメインストリート。とりわけ六日町は、南部駒の競り市が行われる馬町とつながっていたこともあり、馬の買い付けに来る幕府のお役人や馬の鑑定や周旋をする博労、諸大名の要人や諸国の仲買人のための宿屋が並んでいました。全国的に名馬として知られる南部駒は高値で売買され、競り市で大金を手にした博労たちはその足で八幡町へ繰り出し、派手な遊びに興じたといわれています。

 では、西仙北に移転し建物だけが残る栃内病院跡①から歩いてみます。ここはかつてみそ・しょうゆの醸造販売をしていた豪商・木津屋があった所。この2軒隣に、政治家や文化人が泊まる高級旅館「高与旅館」②がありました。1904(明治37)年には、石川啄木の宗教観に影響を与えた高名な宗教家と啄木が深夜まで熱く語り合い、37(昭和12)年には、講演のため盛岡を訪れたヘレン・ケラーも泊まっています。

 後に、この建物は栃内整形外科医院として活用され、中学生の頃にスキーで骨折して運び込まれ、立派な日本庭園を不思議な気持ちで眺めながらギプスをしてもらった思い出があります。現在はマンションが建っていますが、築地塀に囲まれた当時の建物は建築家・伊山治男氏の写真集「あの角を曲がれば」で見ることができます。

 清水町方面に歩みを進めると、交差点の角にれんが造りの渋い建物が見えてきます。「東北総業」③の看板がかかっていますが、もとは銀行の支店でした。左隣には「盛岡医会堂」④があり、中津川が氾濫した際などは避難所として開放されたといいます。現在は駐車場になっています。この一帯は、参勤交代途上の大名ご一行や南部駒の買い付けなど公務で来盛する幕府のお役人専用の藩営宿泊施設「御仮屋」があったエリアです。

(後編へ続く)

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