オリンピック招致に尽力した杉村陽太郎

オリンピック招致に尽力した杉村陽太郎

岩手の先人こぼれ話
岩手の先人こぼれ話シリーズ

宮沢賢治学会 前副代表理事 佐藤竜一さん

 2021年夏、東京オリンピックが57年ぶりに開催されましたが、幻に終わった1940年東京オリンピック誘致に尽力したのが、岩手ゆかりの外交官・杉村陽太郎です。1884(明治17)年9月28日、盛岡生まれの外交官・杉村濬(ふかし)の長男として東京四谷区須賀町に生まれました。

 陽太郎は東京高等師範附属中学校に進学します。当時濬は妻とともに朝鮮に勤務していて、陽太郎は嘉納治五郎(かのう じごろう)の塾に預けられました。講道館柔道の創始者である嘉納との出会いが陽太郎の人生を決定づけました。柔道一筋の生活を送ることになるのです。

 第一高等学校を経て東京帝国大学を卒業した陽太郎は1908(明治41)年父の後を継いで外務省に入省しました。フランス大使館勤務などを経て、1927(昭和2)年には同郷の新渡戸稲造の後を受け、国際連盟事務次長に就任しています。

 恩師の嘉納治五郎は日本で最初の国際オリンピック委員会(IОC)委員でした。陽太郎も嘉納の推薦で1933(昭和8)年に委員に就任しています。1940年東京オリンピック招致に奔走しましたが、1937(昭和12)年の日中戦争勃発により、オリンピックは中止となりました。1939(昭和14)年3月24日、陽太郎は東京で亡くなりました。54歳の若さでした。

「講道館柔道発祥の地」の碑
「講道館柔道発祥の地」の碑(稲荷町・永昌寺境内)

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