第63回 旧餌差小路界隈(前編)

第63回 旧餌差小路界隈(前編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 まだまだ暑い日が続きそうですね。とはいえ一日中、冷房の部屋にいるよりも、朝晩の涼しい時間帯にちょっと散歩をして体を動かしたいところです。

 さて、今回は藩政時代に旧十三日町と遠曲輪濠(とおくるわぼり)で境を接していた「餌差(えさし)小路界隈」をご案内したいと思います。同じ旧町名でも「小路」とつくことからもお分かりかと思いますが、餌差小路は侍町だったところです。

旧餌差小路マップ

 南部の殿様、とりわけ27代利直公、28代重直公、29代重信公には鷹狩り好きのDNAが脈々と受け継がれていたようで、当時は軍事演習や領内検分も兼ねて鷹狩りが盛んに行われていました。鷹狩りとは鷹を捕まえる狩りではなく、鷹を使ってウサギなどの小動物を捕らえさせ、餌とすりかえる狩猟法ですが、 その鷹を調教する鷹匠の屋敷が軒を連ねていたのが、現在の杜陵小学校裏手、とりょう保育園の前の通りから下ノ橋町の遠山病院に至る路地、鷹匠小路と呼ばれていたところです。

 一方、この鷹に与える餌を調達するのが御餌差衆の役目でしたが、鷹匠よりは身分が低いため、肴町や十三日町と遠曲輪濠で隔てた外側に住まわせていたので、その一帯は御餌差町と呼ばれていました。 

 ところが、この鷹狩りも5代将軍徳川綱吉によって制定された「生類憐みの令」で禁じられたのを機に廃れ、後に復活したものの以前ほど盛んには行われなくなったため御餌差衆も減少。御餌差町にも一般諸士の屋敷が立ち並ぶようになったことから、文化年間に正式な侍町の呼称である餌差小路と改称されたのでした。

 餌差小路の侍屋敷に住んでいた士族の多くが、戊辰戦争で敗北したお殿様につき従って仙台藩白石に移る際、 土地屋敷を地元の豪商に売り払ったといわれています。

 その一つが花輪伊豆という武士の屋敷で、買い取ったのはかつて花輪に仕えた士分でありながら時代を見越して実業家の道を進もうとしていた元勘定奉行・菊池金吾でした。1868(明治元)年のことです。

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