南風(はえ)は春の使者である。区界の寒さがちょっぴり緩んだ。国道106号線の新区界トンネルを抜けると兜明神嶽が目に飛びこむ。兜の南側にある桐ノ木沢山は、道の駅や去石(さりいし)の沿道からチラッと見えるだけで、標高1209mの尖がったシャープな山容をすぐ見極められるわけではない。なにしろ、後ろから迫る早池峰山塊の白銀のほうが強烈なのだ。
山名から、「五月ころは沢筋にキリの花が咲く」と連想できるが、長年、桐ノ木沢踏切のそばに住んでいた柳渡(やなぎわたり)さんは「ン~、キリの木も花も、今まで見たことない…」と首をかしげた。地名考によれば、「開墾して切り拓く」のキリの意味合いもあるというから納得である。区界は戦後、木を伐採しながら耕地を切り拓き、寒冷に強い高原野菜を栽培して酪農や木材生産を営んだ。
桐ノ木沢山は、JR山田線の桐ノ木沢踏切を渡り、最後の民家からスタートする。ワカンやスノーシュー、またはスキーを装着し、沢沿いに1時間ほど歩く。Y字路で右に進むと、そのまま林間へ突入するので、ルートファインディングが比較的容易である。厄介なクマザサは、雪に押しつぶされて寝たままだし、雪原と巨木が混在して見通しがきく。ルートを見定めながら南進すれば、2時間半で山頂に着く。だが、雪上を舐めるように吹く寒風は次第に冷たくなる。
かつて、ヤブ漕ぎで苦い経験をした。太くて密生したクマザサが背丈を越えて立つ五月、桐ノ木沢山は超1級のヤブ山と化す。ササの密度が濃すぎて、トランポリンのように跳ねあがり、なかなか地面に着地できない。「こっち、こっち」と仲間に叫ばれるが、曲がったササの流れに抗えず、一歩前進して二歩後退のありさまだ。そう、雪があればこそ快適な桐ノ木沢山だったのである。