第71回 旧仁王三小路界隈(前編)

第71回 旧仁王三小路界隈(前編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

毎年7月初頭には、中央通3丁目にある岩手山神社の例大祭が行われ、例年通りであれば仁王三小路子ども会のお神輿(みこし)が町内を練り歩く光景を目にするのですが、さて今年はどうでしょう。

今回は「旧仁王三小路界隈」をご案内したいと思いますが、その前に「なぜ町名に仁王の名がついているのか」について予習です。

旧仁王三小路界隈マップ

 この一帯は南部氏の城下町になるもっと前から「仁王郷」と呼ばれており、1334(建武元)年の古文書にも「岩手郡仁王郷」との記載があります。その昔、この辺りには平安仏像群を安置した古寺があり、その仁王像が地名の起こりと伝えられています。「旧上田三小路界隈」をご案内したときにも書きましたが、旧町名でも「小路」と付けば武士階級の居住地のこと。この界隈も諸士屋敷街で、仁王小路から枝分かれした位置付けのため「仁王三小路」と呼ばれてきたところです。

 仁王小路が家名を継承する長男の屋敷街であったのに対し、次男、三男の独立などに対処するため旧三戸町と旧長町の間に広がる仁王田圃と呼ばれた水田地帯をつぶして新たに「侍団地」として造成したのが仁王三小路です。町割りの時期が三小路の中で最も早かったのは新山(しんざん)小路。仁王小路のすぐ北側、1626(寛永3)年 南部27代利直公が岩手山 ( 岩鷲山(がんじゅさん))を領内の総鎮守として崇めるため建立した岩手山神社に隣接したところで、境内にあった山伏の修験堂「新山堂」がその町名の由来となっています。続いて町割担当奉行・帷子(かたびら)多左衛門の名を冠した帷子小路が1688(元禄元)年、後任の担当奉行・平山伝右衛門の名を冠した平山小路が1695(元禄8)年に、それぞれ新しい諸士屋敷街として誕生したのでした。

 帷子小路、平山小路、新山小路の3 つの地区は、1970(昭和45)年の住居表示改定によって「中央通3丁目」とひとまとめにされてしまいました。 

 1970(昭和45)年といえば、初めて岩手国体が開催された年ですが、町名だけではなく盛岡の町並みがガラッと変わった年でもあります。

(後編へ続く)

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