盛岡の代表的な景観を有する町の一つ「紺屋町」は、約四百年前、江戸時代前期から続く“旧”の字がつかない現役の町名です。その名の通り、中津川の清流を背景にして染職人(紺屋)が工房を構えていたことから付いた町名ですが、刀鍛冶や彫金師などの職人も住むいわば“匠の町”でもありました。
同時に旧呉服町から続く奥州街道の要路でしたから、保存建造物として豪商の面影を今に伝える「茣蓙九(ござく)」のような商家が当時は何軒も並んでいました。
歴史と伝統ある街「もりおか」を説明するとき、紺屋町は真っ先に取り上げられる通りで、岩手銀行赤レンガ館、盛岡信金本店、茣蓙九、釜定、草紫堂、白澤せんべい店、よ組番屋、菊の司酒造など、ガイドブックに紹介される店や施設が並んでいることもあり、観光客や修学旅行で訪れる人の姿も多く見られます。これらの店や施設の変遷を全てご案内するのは誌面の関係上不可能ですので主なものをご紹介します。
まず岩手銀行赤レンガ館がある場所ですが、その前の交差点は「札の辻」といって藩のお触れを告知する掲示板「高札」が立っていました。上の橋に続いて1611(慶長16)年に架設された「中の橋」は、架設当時は城と直結する武士専用の橋でしたが、そのうちにお城や内丸の重臣屋敷に勤める女中方や御用商人、お抱え職人たちの通用口として渡れるようになりました。一方で領内各地から貧困にあえぐ農民たちが、むしろ旗を掲げてご城下に押し寄せたとき、一歩たりとも渡らせなかったという記録もあるようです。明治になると、ここには「北上回漕(ほくじょうかいそう)会社」という北上川舟運の会社が建ち、その後に「盛岡銀行(現在の岩手銀行)」が興(おこ)り、1911(明治44)年に赤レンガ造りの本店が竣工しました。その斜め向かい、正面の6本の円柱がギリシャ神殿を思わせる「盛岡貯蓄銀行(現在の盛岡信用金庫本店)」は、盛岡銀行と同じく郷土が生んだ建築家・葛西萬司の設計により1927(昭和2)年に建てられたものです。前者は国の重要文化財「赤レンガ館」として、後者は現役の信金本店として、いずれも大切に使用され続けていることが盛岡市民の一人として誇らしくなります。