坂上田村麻呂を英雄として奉り上げる風潮が北東北には今もある。
古代東北の城柵(胆沢城・志波城)を築き上げ、多くの寺院仏閣の縁起由来にも関わっている。「青森ねぶた祭」のルーツも田村麻呂というぐらいの「超英雄」「スーパーヒーロー」とされてきたのだが、それを本当に信じていいのだろうか。勝者側の押し付け、刷り込みを鵜呑みにしてきただけではないか。それらは脅迫、洗脳と言い換えることもできる。
そもそも田村麻呂は「蝦夷征伐」と称し、先住者の権利を踏みにじった武闘派リーダーである。つまり古代東北で平和に暮らしてきた先住者たちの土地に押し寄せ、武力で服従させ、資源を略奪していった、そんな朝廷軍を率いた人物なのだ。先住民を蝦夷と蔑み、抵抗すると鬼と呼び、討ち取っていったが、むしろ本当の悪鬼とは朝廷側であり、その悪鬼の親玉が田村麻呂だったと私は考える。
その理不尽な勢力と戦った蝦夷側のリーダーにアテルイやモレがいる。戦闘したといっても攻め込んだわけではなく、あくまで自分たちの土地を守るためだけの戦いである。しかし、これ以上、戦争が続くと故郷は荒らされ、民たちも苦しむ。そう考え、あえて投降を選んだアテルイたちは平安京に連行され、河内で処刑される。田村麻呂は最後の最後までアテルイらの延命を嘆願した。ここにも「田村麻呂伝ナイスガイ伝説」が語られる。だが、そんな美談めいたものも勝者側のでっち上げだったのではなかったか。私はすっかり疑い深くなっている。
血というものは千年にたった5%しか変わらないといわれる。私に先住していた民の血が混じっているかはわからないが、今もアテルイらと同じ土地に暮らす民の末裔の一人と思えば、皮膚感覚で、すべてに胡散臭さのようなものを感じざるを得ないのである。
さて、そんな中、捉え方を考え直す再検証が行われている。田村麻呂がルーツにある、あの「青森ねぶた祭」にも変化が見られた。かつての「ねぶた祭」最高賞「田村麿賞」が今は廃止されているという。田村麻呂=征服者と捉えられるようになったかららしい。東北史は近年どんどん見直されているのである。
だが、今なお生き続ける「田村麻呂超英雄伝説」は多い。見直すことが難しい、あるいはすでに価値観として土地に根付いているものである。それが田村麻呂が創建縁起に関係する東北の神社仏閣の類いだ。それらは、まるで陣取りゲームの占領地を示しているかのように見える。征服軍側からすれば、これだけ鬼を服従させたという歓喜の証しであり、先住民からすれば蹂躙、略奪された悲しみの証しとも読み取れる。私たちに課せられているのは、ただ漫然と神社仏閣を訪ねるのではなく、その背景をあれこれ想像しながら巡ることかもしれない。