新穀町から穀町にかけての道筋には、味噌・醤油の醸造店、米穀商、油屋、質屋、繊維問屋、薬屋、旅館などたくさんの店が軒を連ねていました。
中でもひと際広い間口でのれんを下ろしていたのが、南部藩特産の紫根染を一手に扱うなどして財を成した呉服商の「糸屋(糸治)」と筆墨紙類の文具や金物雑貨など萬小間物を扱う「木津屋」でした。糸屋は1782(天明2)年創業、木津屋はさらに古く1638(寛永15)年創業の老舗です。
1835(天保6)年から1861(文久元)年にかけて建てられた糸屋の商家(国指定重要文化財)「旧中村家住宅」は愛宕町の中央公民館敷地内に移築され市民に公開されていますが、1834(天保5)年に建てられた木津屋本店(市の保存建築物、県指定有形文化財)は、現在もオフィスとして使用されており、ガラス戸越しに覗いてみると、若いスタッフがそろばんではなくパソコンに向かって仕事をしているのが新鮮です。
木津屋本店の建物には防火対策が施され、火消し用具一式が用意されていました。かの有名な1884(明治17)年の河南大火の類焼も免れ現存しているのは、これらの防火対策や用具が大いに役立ってきたことは言うまでもありません。糸屋も同様で、この2つの貴重な歴史的建造物を今なお目にすることができるのも両家の高い防災意識があってこそです。盛岡にとって誇るべき宝物といっても良いと思います。
木津屋本店の裏店で生まれ育ったのが、後に県勢功労者となり、勲三等瑞宝章を授与された浅野七之助です。ろうそく職人の子だった七之助は、原敬の書生をした後、渡米してジャーナリストになり、日系人の地位向上や敗戦後の日本に食料を送る「ララ物資」の活動を進める一方、渡米した岩手県人の面倒をみるなど「望郷の国際人」といわれた人です。
木津屋本店のわき道の先を突きあたると、右手には豆腐を食べて母の病気が治ったことに感謝して孝行息子が「豆腐買地蔵尊」を寄進したと伝えられる湯殿山連正寺があります。今年もお地蔵さまは盛岡の「豆腐購入額日本一の座」奪還を応援してくれるはずです。