幕末期に起こった戊辰(ぼしん)戦争の際に、盛岡藩は旧幕府側である奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟に加担し薩摩・長州を中心とする新政府軍に敗れますが、そのときの藩主が南部利剛(なんぶとしひさ)で、利剛は責任をとって家督(かとく)を長子の彦太郎(利恭(としゆき))に譲っています。利剛は1849(嘉永2)年に兄(利義(としとも))の後を継いで藩主になって以来、質素倹約に努め学問を奨励しました。
1865(慶応元)年、利剛は従来の藩校「明義堂(めいぎどう)」を「作人館」に改称し、新しい学問や武術を奨励、教育を刷新しました。明義堂の時代は藩学への就学は各自の希望でしたが、作人館の時代になると藩士子弟の就学は義務化されました。また、蘭学を修めた大島高任(おおしまたかとう)たちによって藩に提出された、西洋医学の普及や科学技術の伝習を目指す洋学校=日新堂の設立を訴える嘆願書を利剛は許可しています。
後年、原敬や新渡戸稲造など旧盛岡藩出身者からは名だたる人材が輩出しますが、そのいしずえを利剛が築いた、といってもよいでしょう。
困難な時代を生き抜いた利剛は1896(明治29)年10月30日、69歳で亡くなりました。墓は盛岡市の聖寿禅寺(しょうじゅぜんじ)にあります。